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●映画『大日本人』および松本人志の魔法について

 6月第一週のテレビは、「松本ウィーク」だった。ふだん、自分の番組以外には顔を出さないダウンタウンの松本人志が、「さんまのまんま」や「笑っていいとも」をはじめとする、各局の番組に軒並みゲスト出演を果たしたのだ。
 映画「大日本人」のプロモーションなのだろうと思うが、逆効果だったのではなかろうかと心配している。だって、スベってたし。それに、この度の大量露出を通じて、松本の必死さが視聴者に伝わったことは、必ずしもプラスにならないと思う。というのも、松本の芸風は、良い意味でも悪い意味でも「傲慢さ」の上に成立しているテのもので、その意味で、プロモがらみのテレビ出演みたいな「腰の低い」「余裕の無い」「ものほしげな」芸能活動には、決して従事しないことが彼の生命線であったはずだからだ。実際、松本は、デビュー当時から「わからんヤツは笑わんでもエエで」といった感じの、媚びない笑いを提示してきた芸人だった。で、その、視聴者のみならず、局にも、共演者にも、先輩芸人にも絶対に迎合しない、ある種やぶれかぶれな姿勢が、一部ファンの熱狂的な支持の理由になっていた。
 その松本が、先輩芸人の冠番組にゲスト出演し、真っ昼間のプロモ丸出しのトークコーナーに顔を出し、プライムタイムの番組でロングインタビューに応じている……無残なものを見た気持ちになったのは私だけではあるまい。
 松本人志は、ゲストのトークをオウム返しにするだけで笑いの取れる、稀有な芸人だった。「それは、どういうことですか?」みたいな凡庸なセリフでも、松本が言うと、なぜか、笑わずにおれない、不思議な空気が生まれるからだ。
 なぜ、そんな奇跡が可能だったのかというと、その昔、ダウンタウンがやっていたシュールな笑いが、われわれのアタマの中に根を張っていたからで、つまり何というのか、「速球」がアタマにあるから何の変哲もないチェンジアップで空振りが取れるみたいな、そういう構造が画面を支配していたわけなのだ。
 しかしながら、そのチェンジアップが、実は渾身の力をこめて投げられたタマであることが打者にわかってしまったら、その時点で魔法は解ける。と、松本の一拍ハズしたボケは、ただの、工夫の無いゆるいタマに化けてしまう。
 これまで、当欄で、「お笑いブームはもう終わりだ」ということを、何度か述べた気がするのだが、今度こそ確信した。お笑いブームは、完全に終わりへの道を歩みはじめている。芸人の冠番組が数字を獲れなくなってきている理由について、お笑いの地位が不当に高くなり過ぎたことに対する、調整局面としての下げだというふうに分析していたのだが、どうやら、本当の恐慌がはじまっている。この先少なくとも10年ほど、お笑いの世界には氷河期がやってくるだろう。合掌。
 その昔、私が子供だった頃、町には「国民歌謡」が流れていた。小学生からジジババに至るまでのあらゆる世代の日本人が同じ種類の音楽を聴き、全員が美空ひばりを口ずさんでいた。それが、いつしか、若者向けのポップスと、オヤジ仕様の演歌の間には、超えられない溝が刻まれるようになり、昨今では、同世代の人間であっても、育ち方次第で全く違う音楽を聴くようになっている。
 同じことが、お笑いでも起こる。欽ちゃんやドリフみたいな国民的なお笑いが成立しないことは当然として、いまや、中学生と高校生の間でさえ、笑いのツボが違ってきている。もちろん、オヤジのツボもまったく別なところにある。
 互いに共通点の無い、無数の小日本人。
 さびしいなあ。
(2006年6月「読売ウィークリー」誌掲載)